曼殊院

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曼殊院は竹内門跡・竹内御殿とも言い京都五箇室門跡の一寺に数えられ洛北に於ける屈指の名刹である、最澄が比叡山に創建し、後に西塔北谷に於いて是算国師(ぜさんこくし)の時には東尾坊(とうびぼう)と呼ばれた庵の別院を結んだのが曼殊院の起源とされる、桃山時代に足利義満の北山荘造営のあおり受けて移転する、因みに曼殊(マンジュ)とは梵語の音訳で仏の教えを求める愛楽の意味を持つ、また曼殊沙華(まんじゅしゃげ)インドの仏教伝説に登場する天界の花を言う。
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世紀後半、慈運法親王(じうんほっしんのう)が入山して以後、法親王入山の寺となり宮門跡寺院に列に加わる、1656良尚(りょうしょう)法親王の時代に徳川幕府の援助もあり現在に地に移転する。
是算国師が菅原家の出身であることから北野天満宮が創建された折に別当職を兼務し明治維新に到るまで形態は維持される。
芸術・文学に秀でた人材が集まり諸芸に秀でた良尚法親王の好みで、細部まで桂離宮を意識した建築など多くの文化財を残している。
日本の三不動の一尊と言われる、国宝に
黄不動(平安時代・複製開示)古今和歌集(色紙・曼殊院本・平安時代)を所持し建築的に見ても大書院・小書院・八窓軒茶屋・庫裏など江戸時代初期の傑作建築が存在する、これらは重要文化財の指定を受け宸川など古文書も多く存在し,小堀遠州の好みとされる枯山水の庭園・狩野探幽の襖絵・永徳の竹虎図等がある、また曼殊院には門跡文化すなわち池坊第二代・専好に依る造形美の家伝書とも言える「立花図」二百点以上が伝えれれている、その為か曼殊院の紅葉は特に著名で花の名所として人々に親しまれている。

曼殊院は近畿三十六不動尊霊場の十七番霊場であるが参加寺院は著名寺院が加盟しており四天王寺大覚寺仁和寺・曼殊院・聖護院・蓮院智積院醍醐寺五大堂・根来寺さらに高野山の明王院、南院などが名を連ねている。
近畿三十六不動尊霊場会公式サイト
では全寺に作家・家田壮子氏のコラムが掲載されている。
 


曼殊院の文化財 

不動明王像 絹本著色 掛幅装 168,280,3cm 平安時代  複製開示
古今和歌集            色紙・曼殊院本         平安時代 

本堂(大書院) 14,7m×10,9m 寄棟造 (こけら)       江戸時代 

書院       10,0m×8,9m   寄棟造 杮葺        江戸時代 

庫裏      15,9m×12,3m   寄棟造 杮葺         江戸時代
竹虎図     狩野永徳 


天台宗
       所在地  京都市左京区一乗寺竹之内町42    п@ 075781-5010

注1、京都五箇室門跡 妙法院(日吉門跡・境外仏堂に三十三間堂) 京都市東山区東山七条上る  三千院(梶井門跡) 京都市左京区大原来迎院  青蓮院(粟田御所) 京都市東山区粟田口  曼殊院(竹内門跡) 京都市左京区一乗寺   毘沙門堂 京都市山科区安朱稲荷山町  

2門跡寺院 宗派一門の祖師の法脈を継承する寺の事を言い、平安時代後期になると皇族や公家などが出家して代々入寺する寺を言うようになる、塀には5本線を入れる事が許された、江戸時代に
宮門跡(天皇家の入室) 親王門跡(宮家から入室) ・攝家門跡(五摂家) ・清華門跡(公家)・准門跡(脇門跡・真宗系)・尼門跡(中宮寺・円照寺・法華寺、等)に分類された、但し1871年に公的な門跡寺院制度は廃止されたが門跡を呼称する事は許された、ちなみに門跡寺院とその門主は南都仏教と同じく葬儀の祭主を務める事は無かった。 

3、日本で代表的な不動明王に当院の国宝不動明王二童子像は下記の像と共に著名とされる。  

青不動(青蓮院  絹本著色  掛幅装    203,3cm×148,5cm 平安時代
黄不動(園城寺  絹本著色  掛幅装   178,272,1cm     平安時代       

黄不動(曼殊院) 絹本著色  掛幅装    168,2cm×80,3cm  平安時代    

●赤不動(高野山・正智院)木造彩色     94,8cm         平安時代 

五大明王( )講堂   木造(草槙)彩色  100,9201,5cm      平安時代 

印国宝 ●印重要文化財

4、法親王  禁裏出身の皇子が出家後に宣下(せんげ)される呼称。 


2005120日 2011年3月19日立花図門跡文化加筆 

 

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