山号を深雪山と言い874年(平安時代中期)修験道中興の祖とされる空海の孫弟子にあたる理源大師・聖宝(空海の実弟真雅の弟子)の創建による寺で、山上の上醍醐と下部の下醍醐の総称であり境内は豊かな自然に囲まれた二百万坪を所有している。
後に上醍醐と呼ばれるようになった笠取山の山頂に如意輪観音菩薩と准胝観音菩薩の両観音を安置する堂宇を建てたことに始まりとされる、創建時の伽藍群は応仁の乱で五重塔を残して塔頭を含む伽藍は灰燼に帰し豊臣秀吉による再建の堂宇で占められる。
醍醐寺が発展したのは聖宝の天智天皇を先祖に持つ家系と、当時笠取山の西麓一帯に住みついていた宮道氏の娘が藤原高藤の妻となり、その子が醍醐天皇の母となったために勢力を増したとされる、やがて醍醐天皇の勅願寺となり七堂伽藍を初めとして、三宝院など多くの堂宇が整備された。
開祖・聖宝は真言僧ではあるが少年時代に東大寺に於いて学んでいた、聖宝は南都佛教特に三論にも造詣が深かった為に醍醐寺は三論教学とも兼学の寺であった、また聖宝は東大寺東南院の院主を勤めていた経緯があり東大寺との関係も親密であった、また聖宝は真言宗と修験道を一層緊密化させた僧でもある、即ち古来からの山岳信仰に密教と言うローブを纏う寺である。
907年醍醐天皇の勅願寺となって後は宇多・醍醐・朱雀・村上など多くの帝の庇護を受け醍醐寺と名乗るようになり、山頂にあった小さな堂宇から藤原時代(10世紀)前半に上醍醐・下醍醐伽藍が整備される、下醍醐を中心に1115年三宝院以降・報恩院・金剛王院・無量壽院・理性院などの五門跡を含む初め塔頭寺院を含む200棟にもおよぶ大伽藍が建立される様になる、特に塔頭寺院のうち三宝院は修験道を統括して当山派の本山となる、因みに三宝院の護摩堂(本堂)には快慶作の弥勒菩薩像が著名である。
醍醐寺は応仁の乱に於いて五重塔を残して大半が灰燼に帰すが、摂関家である二条家の義演が(注4)1576年醍醐寺座主に就任する、座主の兄である関白・二条昭実が関白職を秀吉に譲る代償として豊臣一門の援助で寺観を復興して破天荒な花見の宴が行われた。
秀吉の帰依を受けた義演は摂関家の中でも屈指のインテリで「義演准后日記」「醍醐寺新要録」を著すなど文化面で貢献する。
豊臣家滅亡後も義演は徳川幕府との関係も良好に保ち、帰依を受けて隆盛を示し明治の廃仏毀釈で混乱はあったが参拝者は多く現在も八十棟に及ぶ堂宇が存在し文化財の宝庫と言える。
現在の金堂と安置される薬師三尊は桃山時代に秀吉の命令による紀州からの移設である、これ等は平安時代の様式を持ち五重塔と共に醍醐寺の中核をなしている。
建築物としては国宝・五重塔は唯一創建当初のものである、他寺の塔内壁画は薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩など顕教系が多いが醍醐寺五重塔内には両部(界)
その他の堂宇は下醍醐には・大講堂・弁天堂・祖師堂・鐘楼・不動堂などがあり、上醍醐には・薬師堂・五大堂・如意輪堂・御影堂(開山堂)などで構成されている。
また五重塔は総高の3分の1を占める相輪を持ち均衡を保つ美しい塔である、地元の小学生が詠んだ「千年の醍醐を見つめる五重塔」を標語に掲げる京都府最古の建造物である。
三宝院は当初は灌頂院であったが、定賢、義範、範俊三人の師の法流から三宝院と改められた、寺院内に於いての影響力は大きく歴代の院主が醍醐寺座主を務めるようになる、その後栄枯盛衰を繰り返し応仁の乱に於いて消滅する、その後義演が醍醐寺な内の金剛輪院を三宝院として復興させる。
三宝院の中心は国宝・表書院にあり、入母屋造で寝殿造の特徴を伝えている、また三宝院の院主が醍醐寺の座主を務める事から、別名を座主坊と呼称している、現在宗務寺務所は三宝院にあり、醍醐寺派の管長である座主は三宝院門跡を兼務している。
真言宗は広沢流・小野流を拠点に多くの分派に分かれていたが、醍醐寺の聖宝は東大寺との関係が深く三論教学・真言密教、小野流の拠点として活動し白河上皇や足利幕府の帰依も受けて確固たる存在を示した。
上醍醐は西国三十三箇所の十一番札所として准胝堂 五大堂 ○薬師堂 ○清瀧宮拝殿 ●開山堂 ●如意輪堂があり、多くの参詣者を集めており、本尊に准胝観音を擁するのは西国三十三ヶ所中、醍醐寺の一尊のみである、また2月23日には五大明王を祭る、「五大力尊仁王会」が行われている。
また行事も多く五大力尊仁王会(2月23日)・豊太閤花見行列(4月第2日曜)・大峯花供入峰(6月7~9日)・醍醐山万灯供養会(8月5日)などがある。
西国薬師を巡礼する霊場に薬師如来を本尊とする49寺が参加しており、醍醐寺は三九番札所となっている。
醍醐寺は近畿三十六不動尊霊場の二十三番霊場であるが参加寺院は著名寺院が加盟しており四天王寺・大覚寺・仁和寺・曼殊院・聖護院・青蓮院・智積院・醍醐寺五大堂・根来寺さらに高野山の明王院、南院などが名を連ねている、内部組織に不穏な空気が感じられる。
近畿三十六不動尊霊場会公式サイトでは全寺に作家・家田壮子氏のコラムが掲載されている。
醍醐寺の寺名である醍醐の語源であるが密教では曼荼羅(malfala)と同義語で malfa(真実・本質)とla(所持する)に分類される、梵語のmalfalaは酥成した乳製品の上澄みが腐敗しない所から、醍醐は仏教以外に於いても極上・最高の意味に使われる。
千九百年に独立し真言宗醍醐派は醍醐寺が総本山として君臨し六ヶ寺の大本山が従う、・三宝院(醍醐寺山内) ・転法輪寺(奈良県御所市) ・西国寺(広島県尾道市) ・道隆寺(香川県多度津町) ・観音寺(香川県丸亀市) ・龍泉寺(奈良県天川村)となり金剛王寺(京都市伏見区)など多くの別格本山がある。
注1、 上醍醐の本尊准胝観音は秘仏であり、5月17~19日のみ開扉される。
注2、 理源大師・聖宝 (832~909年) 修験道に於ける中興の祖、天智天皇の血統を引き恒蔭王と呼ばれた、空海の実弟の真雅を師として16歳で東大寺に入る、唯識・三論・華厳・真言を学び山岳修験の道に入り笠取山に如意輪観音・准胝観音を奉り真言道場を作り醍醐寺の基礎を確立する。
東寺や東大寺の要職も勤め皇室の信頼も厚く1707年理源大師の称号を東山帝より授かる。
空海の死後に小野曼荼羅寺仁海の小野流と広沢遍照寺の広沢流に別れ更に十二流に分派するが聖宝は小野流の根幹でもある。 醍醐派系の奈良県吉野郡黒滝村にある真言宗鳳閣寺派の鳳閣寺には聖宝が刻んだとされる如意輪観音がある。
師は広沢流の祖である益信と同じ源仁である、聖宝の門下に観賢(835~925)が居り、三十帖冊子問題で高野山と東寺の確執を解消たり、空海の大師号取得を上奏した、また高野山に空海の入定信仰を構築した、観賢は金剛峯寺・東寺・醍醐寺のトップを兼任した唯一の僧である。
また聖宝を派祖とする当山派・修験道の教団が存在し金峰山・大峰山・葛城山を拠点として活動したが変遷を経て明治の廃仏毀釈の時に政府の標的となり姿を消すが、近年三宝院や金峯山寺等で復活の兆しが著しい。
注3、 准胝観音堂焼失・ 2008年8月24日未明落雷により観音堂(約150㎡)と西国三十三所・十一番札所の本尊である秘仏・准胝観音菩薩(約70cm・坐像)が全焼する、観音堂には二尊存在し一尊は出展中で被災を免れる。
注4、義演 (1558~1626)醍醐寺中興の功労者、関白左大臣二条晴良の子、14歳で報恩院雅厳を師として得度し1576年に醍醐寺座主、1585年准三宮宣下をうける。
醍醐寺は応仁の乱に於いて五重塔を残して大半が灰燼に帰すが、藤原摂関家の二条家の義演が九条家を経て醍醐寺座主となり教王護国寺長者を兼務、義演の実兄である関白の二条昭実が関白職を秀吉に譲る等の駆け引きもあり、秀吉を始め豊臣一門の援助で堂宇等の復興を果して盛大な花見の宴を行うまでになる、家康との関係も良好で帰依を受ける。
所在地 京都市伏見区醍醐伽藍町 TEL 075-571-0002
醍醐寺の文化財 表内は国宝 ●印重要文化財
名 称 |
適 用 |
時 代 |
薬師如来三尊像 |
木造漆箔 中尊176,5cm 脇侍120,0cm 霊宝館 会理作 |
平安時代 |
五重塔 |
3間 本瓦葺 相輪が塔高の1/3を占める 38,0m |
平安時代 |
金 堂 |
桁行7間梁間5間 入母屋造本瓦葺 紀州湯浅・萬願寺から移設 |
平安時代 |
薬師堂 |
桁行5間 梁間4間 単層 入母屋造 桧皮葺 |
平安時代 |
表書院三宝院 |
入母屋造 三室 車寄せ唐破風 桟瓦葺 |
桃山時代 |
唐 門三宝院 |
三間一戸 平唐門 唐破風 桧皮葺 |
桃山時代 |
清滝宮本殿 |
桁行3間 梁間1間 流造 桧皮葺 |
室町時代 |
処分状 |
理源大師筆 不行跡僧の解任書 紙本墨書 31,8-45,0cm 霊宝館 |
藤原時代 |
辰翰当流招隆教誡 |
後宇多天皇筆 三宝院の秘法経過書 紙本墨書 56,1-344,2cm |
鎌倉時代 |
清滝宮 拝殿 |
懸造 桁行7間梁間3間 妻入 入母屋造 桧皮葺 |
桃山時代 |
五大尊像画 |
絹本著色 (5幅) 各193,9:126,2cm |
鎌倉時代 |
閻魔天像画 |
絹本著色 129,1:65,4cm |
鎌倉時代 |
文殊渡海図 |
絹本著色 143,0:106,4cm 光台院蔵 霊宝館 |
鎌倉時代 |
訶梨帝母像絵 |
絹本著色 124,3:77,9cm 掛幅装 三宝院蔵 霊宝館 |
鎌倉時代 |
過去現在因果経 |
紙本著色 26,4cm:15,362m 報恩院蔵 |
天平時代 |
五重塔初重壁画 |
両界曼荼羅画 真言八祖像画など 板絵著色18面 |
平安時代 |
狸毛筆奉献表 |
紙本墨書 27.6:65,8 伝空海筆 |
平安時代 |
●弥勒菩薩坐像 (三宝院護摩堂本尊) 木造金泥 玉眼 112,0cm 鎌倉時代 快慶作
●不動明王坐像 木造彩色 玉眼 59,4cm 鎌倉時代 快慶作 霊宝館
●阿弥陀如来坐像 木造漆箔 86,4cm 藤原時代 霊宝館
●阿弥陀如来坐像 銅像鍍金 19,2cm 藤原時代
○聖観音立像 木造 51,5cm 平安時代 醍醐天皇念持仏 *2015年3月文化財審議会より虚空蔵菩薩として国宝答申
●如意輪観音坐像(清滝堂)木造漆箔 49,6cm 藤原時代 霊宝館
●地蔵菩薩立像 木造彩色 玉眼 163,6cm 鎌倉時代
●帝釈天騎象像 木造彩色 105,5cm 藤原時代
●吉祥天立像 木造彩色 167,3cm 藤原時代
●孔雀明王像絵 紙本著色 83,5-54,8cm 平安時代
●大元帥明王像絵 絹本著色 342,4-221,2cm 平安時代
●金剛力士立像(西大門) 木造 阿形359,0 吽形363,5cm 藤原時代
●五大明王像 木造彩色 不動明王 86,3cm 降三世明王 122,3cm 軍荼利明王 125,8cm 大威徳明王 80,3cm 金剛夜叉明王 118,1cm 藤原時代
●薬師如来三尊(金堂)木造彩色 玉眼 中尊128,8cm 左脇侍190,9cm 右脇侍181,5cm 鎌倉時代 本尊
●千手観音立像 木造 191、0cm 平安時代 霊宝館
●大威徳明王 木造 127,3cm 平安時代
●閻魔天像 木造彩色 93,4cm 藤原時代
●理源大師坐像(開山堂)木造彩色 83,0cm 鎌倉時代
●三宝院辰殿 入母屋造 桟瓦葺 江戸時代
●開山堂 桁行5間 梁間8間 入母屋造 桃山時代
●如意輪堂(御影堂) 桁行5間 梁間3間 柿葺 桃山時代
●護摩堂 桁行3間 梁間5間 入母屋造 桟瓦葺 桃山時代
●三宝院勅使の間 入母屋造 桟瓦葺 桃山時代
●清滝宮本殿 桁行3間 梁間1間 流造 桧皮葺 桃山時代
●三宝院・玄関・庫裏・純浄観 護摩堂など。
●阿弥陀三尊像 絹本著色 掛幅装 97,9:43,3cm 鎌倉時代
●愛染明王像 絹本著色 掛幅装 86,1:50,1cm 鎌倉時代
●訶梨帝母像 二幅 紙本白描 掛幅装 鎌倉時代
●火天部尊像 紙本白描 巻子装 30,0:315,0cm 鎌倉時代
●金剛童子像 紙本白描 掛幅装 150,8:79,7cm 鎌倉時代
●虚空蔵菩薩像 絹本著色 掛幅装 162,4:76,7cm 鎌倉時代
●五大尊図像 紙本白描 巻子装 29,9:561,0cm 鎌倉時代
●虚空蔵曼荼羅図 絹本著色 掛幅装 237,6:162,4cm 鎌倉時代
●満済准后日記 紙本 江戸時代
●地蔵菩薩立像 絹本著色 119,1cm×54,8cm 鎌倉時代
●金銅両部曼荼羅 銅製107,0cm:91,0cm 鎌倉時代
●十巻抄 10巻 紙本著色 29,0m 鎌倉時代 図像抄とも言い日本初の図像
●輪宝羯磨紋戒体筥 鎌倉時代 霊宝館
●芦鴨図(ろこうず 俵屋宗達筆)二面衝立 紙本墨画 各 143,5:168,0cm 江戸時代 その他宗達の作品に扇面散図・無楽図がある 他、絵画の合計約七十点
3月25日~5月15日 10月1日~11月25日 秘仏開示
五大明王を所持する寺院
寺 名 |
備 考 |
|||||
● 常福寺(三重) |
172,7cm |
178,8cm |
172,7cm |
150,6cm |
177,7cm |
木造彩色 平安時代 |
● 瑞巌寺 |
64,1cm |
92,1cm |
89,7cm |
67,7cm |
91,1cm |
同上 |
● 醍醐寺 |
86,3cm |
122,3cm |
125,8cm |
80,3cm |
116,7cm |
同上 |
○ 教王護国寺 |
173,3cm |
173,6cm |
201,5cm |
100,9cm |
171,8cm |
同上 明円作 |
● 大覚寺 |
50,9cm |
67,5cm |
69,3cm |
58,1cm |
69,6cm |
同上 |
● 不退寺 |
85,7cm |
154,7cm |
157,0cm |
99,0cm |
150,5cm |
同上 |
● 宝山寺(奈良) |
17、1cm |
18,7cm |
17,5cm |
11,5cm |
18,1cm |
江戸時代 厨子入 |
注 常福寺は寺院公式サイト
絵画(五大尊像)
○来振寺 絹本著色 不動 降三世 軍荼利 大威徳 鳥枢沙摩 五幅
各140、0cm×88、0cm 平安時代
○東 寺 絹本著色 掛幅装 不動 降三世 軍荼利 大威徳 金剛夜叉 153,0cm×128,8cm 平安時代
○醍醐寺 絹本著色 掛幅装 不動 降三世 軍荼利 大威徳 金剛夜叉 193,9cm×126,2cm 鎌倉時代
最終加筆日2004年10 月13 日 12月26日2005年10月22日注2、 2006年1月15日金堂説明 2008年12月13日 2012年3月18日加筆