叡尊(えいそん)      12011290 

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謚名を興正(こうしょう)菩薩と言い荒廃した西大寺復興の立役者で真言律宗を興す、鎌倉時代に於ける戒律復権の機運を逃がさずその先導を果たす。
興福寺
の学侶の子で17歳の時出家し唐招提寺で律宗を学び高野山金剛峯寺醍醐寺密教を学ぶ、空海の戒の重要性を説く遺誡に魅かれて持斎僧として海龍王寺を経て西大寺入りした後に東大寺に於いて受戒を受けるが、仏教の本道すなわち興法利生(こうぼうりしょう)を目指して、荒廃していた西大寺を拠点として律の教学を広め復興する、
戒律の重要性を高揚し、形骸化していた受戒にに密教の所業を加えた仏からの受戒すなわち自誓受戒とする手法で禁裏等の信認を受ける、後嵯峨上皇・亀山上皇・北条時頼・実時の帰依を受ける、因みに興法利生とは真の仏教を興隆させ衆生の多幸を祈願する願を言う。
1281
年弘安の役には朝廷の以来を受け560人の持戒僧を従えて岩清水八幡宮に於いて敵国降伏の祈願を行い、七日七夜の修法が終了した日に神風が吹いたと言う、叡尊は密教僧であるが神仏隔離に厳格な伊勢の神宮ともコンタクトがあり、天照大神と大日如来の融合を理論化した様子が覗える。
僧侶を含め大衆にも戒律守護の重要性を教える、その他活動としては弟子にあたる忍性(奈良に悲田院を興し貧者、病人を救済、鎌倉・極楽寺を創建、1217年~1303年)を伴い土木工事・社会事業・貧者救済にあたる。
叡尊は般若寺復興の祖でもあり1269年に六千人とも言われる非人を集め、諸人は平等と言う無遮大会(むしやだいえ)を挙行しこの精神は長く受け継がれた、また女人救済にも貢献しており六人の比丘尼に密教の伝法灌頂を与えている、晩年には請われて鎌倉に赴き北條時頼や実時にも受戒受戒している。
叡尊の「悲華経(ひげきょう)」に基ずく興法利生とは、もう一つの意味があり釈迦如来に習い己の死後も浄土には逝かないで、五濁悪世(注3娑婆(しゃば)sahā・サハー・大地)いわゆる穢土(えど)に留まり衆生救済に携わる事にある、因みに如来菩薩の数だけ浄土は在るとされるが釈尊は浄土を所持していない。
叡尊は南都の官僧たちが白袈裟
(白衣)を着用したのに対して黒袈裟を着用し黒衣(こくえ)と呼ばれた、著書に感身学正記・梵網経古迹記輔行文集・関東往還記があり90歳の長寿を全うする。
肖像を西大寺と鎌倉・極楽寺(真言律宗)に残す、 真言律宗に於いて宗祖は空海で叡尊は派祖とされている。
 

 
1自誓受戒(じせいじゅかい)仏から受戒される作法を誓う。

2興法利生(こうぼうりしょう)釈尊の正統仏教を興隆させて衆生を救済する。 


3 、 五濁(ごじょく)の悪世 五濁の悪世とは  1、劫濁(社会の悪 汚濁 疫病 争い)  2、見濁(利己主義 邪見)  3、煩悩濁(猜疑心 心の悪徳)  4、衆生濁(脱道徳 意識の低下)  5、命濁(上記の濁り短命) を言う。
また「地蔵十輪経」には仏滅から弥勒仏の登場までと思惟されるが、五濁悪世の無仏世界に於いて衆生を救済する意味合いが記述にある。
*四劫と言う総ての誕生から消滅までの間に永劫の流転を繰り返す、1、成劫 万物の誕生、 2、住劫 安定期、 3()劫 衰滅期、 4、空劫 総てが無、に分類され各劫は20劫を要する。


4、悲華経 釈尊が浄土を作らず五濁悪世の娑婆に存在した自土成仏を称賛する経典で仏舎利が瑠璃宝珠となり娑婆を浄土化すると宝珠となると言う。
 

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