西大寺

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南都七大寺(注6の一寺で別名を高野寺(たかのでら)とも言う、創建当時は南都の二大巨刹に数えられ東大寺に対して平城宮の西に位置することから西大寺と呼ばれるようになった、創建時は東大寺に対抗できる規模を持つ大伽藍で二棟の金堂には薬師如来弥勒如来を本尊としていた。
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年の「大和国南寺敷地図帳案」に依れば、創建時は48㌶とも言われる広大な敷地を持ち豪華絢爛を極め特異な伽藍形式であった、即ちY軸上の中心に薬師金堂・弥勒金堂を置き、W軸側は前面に高さ50mに及ぶ・東西両塔を配置し・四王堂・十一面堂等を配置していた、当初は講堂・鐘楼・経蔵、食堂等が無いが300棟もの僧坊が存在し持てる技術の粋を尽くした仏像群を揃えた奈良朝最後の官大寺
(13)であったが、女帝の崩御を契機に見捨てられ衰退の道を辿る、絢爛を極めた堂婆も落雷や火災に見舞われ叡尊が入寺する頃、すなわち平安時代末期には四王院と食堂が残る程度であった様である。
西大寺は空海
(1)請来以前の密教関連の仏像経典等膨大な量の文化財を持ち、称徳天皇の発願により765年四天王が最初に像造されたのが始まりである、これは藤原仲麻呂の乱を平定するあたり戦勝に対して謝意を表して創建されたと言う。  

天武系の権勢に陰りが見え藤原一門の執権的体制が強固となったこの時期、更に東大寺・国分寺の建造の後で疲弊した財政状態の中で東大寺に次ぐ規模をもつ大伽藍が建立された、称徳女帝と弓削道鏡の男女関係が取りざたされるが、二人は仏教の師弟関係と考えるべきで女帝に責任があるとすれば政務を任せた道鏡の貴族冷遇政策に憎悪した藤原家の反発や、仏教に傾注し過ぎて財政を破綻に導いた事にあり、執権体制に邪魔な道鏡と天武系の女帝を除外し天智系にすり替えた企みが感じられる、因みに神護寺の国宝・薬師如来は道鏡の鎮魂を目的として造像されたとも言われる。
阿倍内親王(孝謙・称徳女帝)の皇太子時代に東宮学士を務め、礼記等を教え、女帝に諫言出来たと思惟される側近で、大納言から右大臣を務めた吉備真備(きびのまきび)が近くに居り、まだ戒律が守らた時代に僧侶との男女関係は考えにくい、要するに藤原一門の執権体制に邪魔な称徳女帝や一門以外の吉備真備の排除と観た方が妥当かもしれない、また道鏡は日本法相宗の祖、義淵の弟子で東大寺建立に貢献した行基や良弁等と同門の俊映で、呪願を重視し衆生との接点は無いが、雑密すなわち空海以前の密教の指導僧である。

天台宗
真言宗が権力機構と癒着し腐敗する中で鎌倉時代に入り、宗教ルネッサンスとも思える戒律復権の機運が高まり叡尊
(興正菩薩・注1が寺の復興と戒律教義の普及に貢献した、叡尊の布教により天皇、公卿や鎌倉幕府の北条時頼等の帰依を受けて寺領も増加し真言律宗の基盤が固まった、持斎僧・叡尊の復権にフォローの風が吹いたのは弘安の役である、叡尊達は蒙古襲来に対して七日七夜の船団退散の祈祷明けの日に大風が吹き蒙古船団は壊滅的被害を受けた、これにより叡尊の評価が著しく上がる、この修法により西大寺の愛染明王像の矢が九州に飛び大風を起したと言う伝承がうまれた。
桃山時代に入り南北朝の戦乱に巻き込まれ堂婆や寺宝を焼失するが、江戸時代に入り現在の本堂・観音堂・護摩堂が建立され鑑真が伝え叡尊
(1が広めた戒律が受け継がれている。
西大寺の本尊・釈迦如来には叡尊の思想が凝縮されている、即ち釈迦如来には「悲華経(ひげきょう)11」が叡尊により施入されている、悲華経とは浄土に行かないで五濁悪世の娑婆に於いて衆生を救済すると言う経典とされる、叡尊達は浄土入りを回避して衆生救済に努めた。
「不浄の財を厭うこと無ければ出家たるに足らず、律儀の戒を成すこと無ければ仏子と称すべからず」 叡尊
尚境内は国の史跡の指定を受けている。
尚書籍の国宝指定に金光明最勝王経10巻と大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経がある、また国宝・十二天画像は真言密教の修法に使われた画像で大幅で十二幅総てが揃い貴重である、叡尊の祖像(玉眼 88,0cm)は没後十年程後に弟子たちの発願で造像されたリアルな秀像である、五輪塔は叡尊の墓である。
現在は春と秋に行はれる大茶盛式は叡尊が法会の後に西大寺の守護神に献茶をし、衆生にも振舞った事が嚆矢とされ賑わいを見せている。 
西大寺は昭和10年代後半早稲田大学で教鞭を執った会津八一は「理想的な廃墟」と云った、現在真言律宗の総本山であるが傘下に以下のような魅力的な多くの著名寺院を従えている。
毎年四月中旬に行われる西大寺で著名な祭事は大茶盛の茶儀であるが、これは叡尊が興した光明真言会の土砂加持祈祷すなわち修正会の結願に対するお礼の献茶の発展形と言える。 
浄瑠璃寺
     京都府相楽郡加茂町   
岩船寺
      京都府設楽郡
(したら)加茂町   
般若寺
      奈良市般若寺町   
元興寺
極楽坊  奈良市中院町   
不退寺
      奈良市法蓮町   
法華寺
      奈良市法華寺町     等々         

真言律宗本山  所在地 奈良市西大寺芝町115      ℡ 0742454700       (真言律宗は真言宗に分類しております) 

注1、 叡尊(12011290年)は戒律復旧に生涯を奉げた興福寺僧・貞慶の流れをくむ僧である、真言律宗の派祖で諡号を興正菩醍叡尊と言う、鑑真和上により請来された戒律・真言宗の精神とも言える三昧耶戒など戒律の遵守を称え、疲弊の極いあった西大寺に入り西大寺版の版経を広めるなど光明真言会を興す等、寺院と戒律の確立と社会事業の実施を目指した、三昧耶とは梵語 samaya(サマヤ)の音訳で誓約・約束を意味し、仏教では「仏の覚りと融合した境地」、密教では誓願、本願、本誓とされる、因みに叡尊や唐招提寺を再興した覚盛(かくじょう)などの戒律復興を目指す僧達は、師からではなく仏から授戒する自誓受戒を受けたとされる。
但し真言宗からの完全独立は明治時代に入ってからである、即ち1895年真言宗から分離し西大寺を総本山として真言律宗となる。   
叡尊は源氏の出身で字を思円と言う、興福寺の学僧・慶玄を父として17歳で剃髪する、1225長岳寺で霊山院・阿闍梨静慶から密教の行法を学ぶが後に戒律を重要視し西大寺に入る。 亀山・後深草・後宇多上皇の帰依を受け信空・忍性等多くの弟子を養成する呪術に頼る真言宗に戒律の復興・下民族層の救済・社会基盤の整備等々日本仏教に於ける最高峰の業績を挙げた、忍性は叡尊の事業を大きく拡大した

弘安の役には朝廷の以来を受け岩清水八幡宮に於いて敵国降伏の祈願を行い神風が吹いたと言う、その他活動としては弟子にあたる忍性(奈良に悲田院を起こし貧者、病人を救済、鎌倉・極楽寺を創建)を伴い土木工事・社会事業・貧者救済にあたる。
叡尊は悲華経(注11)を信仰し自身は浄土に入らないで五濁悪世の娑婆に留まる誓いをたてた、著書に感身学正記・梵網経古迹記輔行文集・関東往還記があり90歳の長寿を全う、肖像を当寺と鎌倉・極楽寺に残す。
五濁の悪世とは  1、劫濁(社会の悪 汚濁 疫病 争い)  2、見濁(利己主義 邪見)  3、煩悩濁(猜疑心 心の悪徳)  4、衆生濁(脱道徳 意識の低下)  5、命濁(上記の濁り短命) を言う。
また地蔵十輪経には仏滅から弥勒仏の登場までと思惟されるが、五濁悪世の無仏世界に於いて衆生を救済する意味合いが記述にある。


2、 塔本四仏は本来五智如来であり大日を中尊として東より阿閦 ・宝生 ・阿弥陀 ・不空成就であり釈迦ではないが二尊は同体と解釈する例もある。 


3、 十二天とは 帝釈天・閻魔天・水天・火天・羅刹天・風天・毘沙門天・梵天・日天・伊那天・地天・月天を言う。 


4、阿閦如来 ・阿弥陀如来坐像 ・興正菩薩坐像 ・文殊菩薩画像 十二天画像 鉄宝塔  舎利塔 他非公開   

 

5、清凉寺式の釈迦如来像は優塡(うてん)思慕像(おうしぼぞう)とも言い、伝説上の信仰対象として「瑞像」の範疇に属し仏像製作の起源との説もある、また瑞像は模刻が繰り返され凉寺(注3、参照)の像も奝然請来の模刻像である、また教王護国寺毘沙門天も瑞像と言われる。清凉寺の釈迦如来は伝説上仏像製作の起源と成った像の模刻である、清凉寺の模刻像は日本に100尊以上存在するが、清凉寺像から直接模刻が行われた確実な像は1249年叡尊が願主として造仏師・善慶に担当させた西大寺像のみである。
瑞像とは日本国語大辞典に依れば瑞相を備えた仏像。特に、優填王が初めて釈迦像、栴檀を用いて造立したとの伝説上の仏像をさす。京都市嵯峨の清涼寺に蔵する釈迦像はそれを模したものとされる。 

6、南都七大寺 天皇の発願により造営された寺で全てが官給の為国の監督を受けた官寺で七堂伽藍(西大寺など例外も在る)を備えた大寺を言う、・大安寺(大官大寺)・薬師寺元興寺(法興寺)・興福寺法隆寺東大寺西大寺・の事を言いほとんどが六宗兼学の道場であった。八世紀後半に四天王寺・唐招提寺・東寺・西寺(現在は無い)などを加えて十五大寺と言う呼び方もされた。
七堂伽藍とは・金堂・塔・講堂・回廊・経蔵・鐘楼・僧房・食堂を言うが七は悉くに通ずる。

7、東西両塔は当初は八角形・七重塔が計画されていた様で基壇は発掘されたが、建立された両塔は通常の四角形・五重塔であった。

8、孝謙天皇と弓削の道鏡とのスキャンダルは策略による失脚説が妥当であろう、続日本書紀にも敬虔な仏教信者である女帝の「己が師」「朕が師」の記述があり、道鏡も呪術で女帝の病平癒を祈願した折に同室した事からのスキャンダル説が正統であると考えられる、因みに神護寺の国宝・薬師如来は道鏡鎮魂の為に造像されたと言う。

9、死者に対する法要に関する信仰に「十三仏信仰」があり当寺も大和十三仏霊場に参加している。

*西大寺 *文殊院*長岳寺  *当麻寺 *新薬師寺 *円成寺 *大安寺 等の著名寺院が参加している。



10、奈良県には著名な十一面観音を安置する・海龍王寺 ・西大寺 ・法華寺 ・聖林寺 ・大安寺 ・法輪寺  ・長谷寺 ・室生寺の八寺が参加した大和路 秀麗 八十八面観音巡礼と題したホームページが作られている。

11、悲華経 釈尊の穢土成仏を賛美する経典である、自身の浄土を作らず五濁悪世の娑婆に存在した自土成仏を称賛している、仏舎利が瑠璃宝珠となり娑婆を浄土化すると宝珠になると言う、釈迦如来像の胎内に経典と五輪塔(水晶)すなわち舎利容器が内蔵されていた。
因みに娑婆とは
梵語(saskta)サハーの音訳であり、意訳では忍土(にんど)とか忍界と訳される。 

12、西大寺を頂点とする真言律宗は、仏像造像に於いて像内納入品が最重要視され多くの納入品文化財を所持している。

13、寺挌  寺院に等級を設けて格式をランク付された、当初は官寺の中で官大寺、国分寺(尼寺)、定額寺とランクされたが、平安時代に入りに門跡寺院が発生すると、宮門跡、摂家門跡、准門跡、脇門跡などの寺格が生じる、更に下部に院家、准院家などが成立した。
これらは国家や朝廷すなわち公の序列であるが鎌倉・室町両幕府が臨済宗寺院を五山、十刹、諸山、林下に分類した。
同じころ各宗派内部の序列格式としての寺格制度が定着する。
曹洞宗では別格寺院を常恒会、片法幢会、随意会に、法地(普通寺院)14にし、その下部に平僧地を置いた。
浄土真宗では院家、内陣、余間、飛檐、平僧に区分した、さらに複雑な寺格が定められて上納金によって昇進することが出来た。1871年(明治4年)に寺格は廃止されたが現在も教団には残されている。


西大寺の文化財   表内は国宝  ●印重要文化財   

名       称

 区 分

仕             様

 時   代 

 十二天像

絵画

  絹本著色 160,0cm:135,0cm(拝観) 

 平安時代

 舎利塔

工芸

  金銅透彫 H37,0w18,7

 鎌倉時代

 宝塔壷等五具 

工芸

  銅製鍍金 H90,965,2

 鎌倉時代

 宝塔他

工芸

  鉄製   H 1727cm

 鎌倉時代

 大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)  

 書籍  

  1巻 

 平安時代 

 金光明経

 書籍

  0 

 平安時代 

その他  

文殊菩薩騎獅・脇侍像・五尊 木造彩色 玉眼 文殊82,2cm  脇侍 善財童子86,5cm ・優填王119,5cm ・仏陀波利三蔵104,2cm ・最勝老人105,8   鎌倉時代    

釈迦如来立像(清凉寺式)木造 167,0cm 鎌倉時代 

愛染明王坐像 木造彩色玉眼 32,0cm 鎌倉時代    秘仏  115-24日他 

吉祥天立像 木造彩色 184,3cm 平安時代 

十一面観音立像 木造漆箔 590,8cm 藤原時代 

●塔本四仏(旧塔内の四方仏) 木造漆箔 阿弥陀如来75,3㎝・釈迦如来70,8㎝(不空成就)(東博寄託)・阿閦如来72,2㎝(奈良博寄託)・宝生如来坐像 75,0cm天平時代 

四天王立像 銅造(多門天木造)221,4236,3cm 持国天・増長天・広目天・鎌倉時代 多門天・室町時代 邪鬼は天平時代 金銅製の四天王は本像のみ。

●興正菩薩坐像(叡尊)木造彩色 玉眼 88,0cm 鎌倉時代 

●行基菩薩坐像 木造彩色 玉眼 67,0cm 江戸時代 

大黒天立像 木造彩色 82,7cm 鎌倉時代  

●厨子(愛染明王)木造彩色 75,2cm 南北朝時代 

●釈迦三尊像(仁王会本尊) 絹本著色 掛幅装 78,536,5cm  鎌倉時代 

●厨子 黒漆塗 55,8x44,2x22,6cm  種子摩茶羅 胎蔵界 鉄鍛造鍍金 21,4cm鎌倉時代 (大神宮御正体) 



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最終加筆日2004112日 2008925日注8  2010年4月13日 2016年11月17日三昧耶解説 2017年2月8日注11一部加筆 

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