法性寺(ほっしょうじ)

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大悲山一音院(いっとんいん)法性寺と言い、925年摂政であった藤原忠平941年関白太政大臣)の創建とされ平安時代には定額寺となり藤原摂関家に於ける一門統合のシンボル的氏寺として京洛二十一ヶ寺の一寺として栄えたと言う、因みに法性寺の寺名は菅原道真の怨霊を鎮めたとされる天台宗十三世座主・法性坊尊意886940年)から取られたと言う。 

創建当初は法相宗の寺で、後に天台宗即ち胎密の拠点となる、広大な境内には四本の川が流れ、・金堂・五大堂・灌頂堂三昧堂等々を含む百棟をはるかに超える堂宇を持ち、東福寺周辺から稲荷山(伏見区)、西では鴨川までの広がりを持っていたとされる。
934
年には定額寺となる、病快癒が信じられた事もあり白河法皇や近衛天皇も行幸したとされる、また延暦寺管主を四度務めた慈円の実兄で、法然最大の守護者であった九条兼実
1191年、関白)は法性寺に於いて得度(円証を名乗る)しており後法性寺殿と呼ばれていた、法然は流罪された折に当寺、月輪殿に住んでいた兼実を訪れている、現在法性寺が浄土宗西山派に属しているのも法然に関連しているのかも知れない。    

日本を代表する権門勢家(けんもんせいか)藤原摂関家(注3の菩提寺も1239年九条道家が境内に東福寺臨済宗を建立するにおよび母屋を取られて江戸時代には寺屋敷と呼ばれたと言う、現在は明治時代に建立された観音堂と共に尼寺として残る、寵愛してくれた祖父の兼実(後法性寺殿)も大切にした法性寺を廃した道家の気まぐれか、子供の(より)(つね)を鎌倉幕府の将軍に送り込んだ配慮からか臨済宗に帰依したとは言え栄枯盛衰の悲哀を感じざるを得ない。 

所有していた文化財も五大堂の中尊と思われる不動明王定朝の師であり父でもある康尚作とされているが東福寺塔頭の同聚院に存在し、阿弥陀如来は京都国立博物館にあり、現在残る仏像は旧灌頂堂の本尊と伝えられる像で、彫刻としては藤原時代前半(934年頃)の作とされる貞観時代の温和な表情を持ち、稀有な27面を持つ国宝・千手観音が安置される、この尊像は博物館を含み寺外に出た事は無く法性寺を巡礼しなければ拝観の機会は無い。
厄除け祈願の信者が訪れて観光を目的とした寺ではないが、当寺の国宝・千手観音菩薩は27面であり、これは当寺と清水寺奥の院の本尊
(秘仏)胎蔵界曼荼羅・虚空蔵院に存在するが稀有であり仏像愛好者には必見の観音菩薩と言えよう。
当寺との関連は特に存在しないと思惟されるが、奈良時代初期すなわち南都六宗成立以前に於ける宗派に倶舎衆・成実衆・律衆・摂論(しょうろん)衆・三論衆があり、後に摂論衆に変わり法性衆が存在した、そして華厳宗が広まり六宗が成立する頃に法性衆は法相宗になった様である。
また20世紀随一とも言える仏師で将来にも名声を残すであろう、松久宗琳仏所の故宗琳の指揮になる薬師如来像と不動明王像がある、特に不動明王は同聚院からの返却が叶わない為に、それに代わる為の尊像である。 
因みに法性とは智慧の光に照らされていると言う意味合いを持つ。
現在は厄除け観音として女性達の信仰を集めている。
洛陽三十三所観音霊場と言う組織が在り歴史は古いが長期間途絶えていたが復活し、法性寺は21番札所となっている、1、頃法寺 2、金戒光明寺 1014清水寺(本堂・奥の院・本堂・朝倉堂・泰産寺) 15六波羅蜜寺 17蓮華王院 23東寺 等の著名寺院が参画している。
本稿に関係は無いが、法性寺と言う寺名で思い出すのが禅宗の六祖慧能が衣鉢を継いたデビュー場所が法性寺
(中国広州)である 
  


千手観音菩 立像 27面 木造(桜一木造)古色 飜波式衣文 1097cm 藤原時代  

 

宗派 浄土宗 西山禅林寺派       所在地 京都市東山区本町十六丁目      

拝観には予約が必要      075-541-8767 

  


1、法性寺殿と呼ばれ近衛天皇の御世に摂政を勤めた関白・藤原忠通(10971164)が嚆矢とされる書道の流派に法性寺流があった。 法性寺流の書風作品に藤原(世尊寺)伊行の「葦手下絵和漢朗詠抄」(京都国立博物館所蔵)がある。   

2、 清水寺 奥の院の27面千手観音は秘仏であるが前立ちの観音菩薩が拝観できる、三面千手観音ともいい本面と同サイズの左右面と頭部に24面の菩薩で法性寺とは異なる、 木造 坐像 64,9cm 江戸時代 。  
   


3、 五摂家(藤原摂関家) 鎌足を祖とし不比等に引き継がれ長く朝廷を支配した一族で歴代天皇の外戚を続け日本史の中でも藤原時代の名称まで残し天皇家に次ぐ名門。
不比等の子供達の系列から凄惨な確執を繰り返した後10世紀(藤原時代)には藤原武智麻呂(むちまろ)の南家に対して藤原房前(ふささき)の北家が覇権を持つ、鎌倉時代に五摂家に別れ近衛基実から・近衛家・鷹司家、 九条兼実から・九条家・二条家・一条家となり摂政関白を独占する、中でも近衛家が覇権を所持していたが頼朝追討宣旨で失脚し九条家と覇権を分け合う。
また藤原姓は橿原市高殿町付近の地名からともされる、また五摂家の中核である九条家は本宅が九条坊門小路南‐信濃小路北‐烏丸小路西‐室町小路西に存在したことに依る。
五摂家の傍系に久我・醍醐・今出川・姉小路・山科・花山院・広幡・三条・西園寺・徳大寺・難波・飛鳥井・冷泉・坊城・日野・烏丸・大炊御門・中炊御門・観修寺等があり本来は全て藤原姓である。
五摂家による禁裏支配制度は後醍醐天皇の御世を除き明治維新まで継続した、1884年に華族令により廃止になり五摂家は華族筆頭として公爵位を授けられた。
藤原不比等とは鎌足を父に宮廷歌人額田王と同一人とも言われる鏡王を母に持ち大宝律令・貨幣経済・成文法等を導入して藤原一門の千三百年にわたる栄華の礎を築く。  
  

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