永観堂 禅林寺

      
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晩秋の古都の景観を彩る景観は素晴らしい、京都の秋は「もみじの永観堂」と言われている、「おく山の岩垣もみじ散りぬべし照る日の光見る時なくて」歴史は長く古今和歌集に詠まれている。
通常は永観堂(えいかんどう)の呼び名で親しまれているが、正式名称は
(しょう)(じゅ)来迎山(らいごうさん)無量(むりょう)寿院(じゅいん)禅林寺(ぜんりんじ)と言い、中興の祖とされる第七世住持の永観(ようかん)(注1にちなみ京都を始め巷間では「えいかんどうさん」と呼ばれ信仰を集めている。
この辺りから大原から小野は比叡山から僧侶達の遁世地であり、永観堂も従五位下治部少輔兼斎院長官を務めた藤原北家の末裔である関雄
805-853年)の閑居跡と言われている、古くからの紅葉の名所であり、古今集に藤原関雄が詠んだ「奥山に岩垣紅葉散りぬべし照る日の光見る時なくて」が知られている。
853
空海の孫弟子・真紹が藤原関雄の山荘を譲り受けて堂宇を建立し五仏
(五智如来・注3を安置したことを嚆矢とされ当初は真言宗の寺であった、従って永観の時代に禅林寺の本尊は大日如来から阿弥陀如来に変更され念仏を機軸とする寺となる。
真紹(しんじょう)の時代の863
(貞観五年)に清和天皇より禅林寺の寺名と定額寺の勅許を受ける、その後法主は真紹をはじめ、同じ空海の系列で占められたが、入唐八家の一人である宗叡の後には、3世~6世住持まで天皇家、貴族の王子達が入山して貴族化された寺となった。
1072
6世で花山天皇の皇子・深観の弟子となった永観が東南院に入り、往生拾因(おうじょうしゅういん)を著すなど、念仏宗を提唱して往生講を行い、自らは7世に就任する事により禅林寺は浄土信仰の寺となった。
永観は法相宗・華厳宗・三論宗学び更に光明寺に於いて念仏行を修め住持として禅林寺に帰る、1082年念仏行道中に弥陀顧命
(みかえり)の相を感得する事により、本尊にみかえり阿弥陀如来を安置したとされる、近年埼玉県川口市の密蔵院(真言宗智山派)にみかえり阿弥陀の模彫ではないが、「みかえり」を真似た、地蔵菩薩が奉られている。
その後に真言僧の静遍が住持に就任すると、法然の門下に入り禅林寺は浄土宗に改宗し、17世に西山(せいざん)派西谷流の浄音が住持になり、西山派の寺となる。
西山派について述べれば、法然の高弟である証空は西山上人とも呼ばれ、確立した教学に「西山義」がある、西山義を継承する宗派は三派あり、「西山浄土宗」「浄土宗西山深草派」「西山禅林寺派」がある
応仁の乱に於いて凡て灰燼に帰すが1497年後土御門天皇の時代に再建されたが現在の堂宇は比較的新しい。
当寺は文化財の宝庫であり、国宝の山越阿弥陀図・重文指定の当麻曼荼羅縁起・長谷川等伯の波涛図・狩野元信の釈迦三尊画・十六善神像図などの多くの寺宝があり、京都観光の中心地に位置しながら信仰の心を失わない寺の一つと言える。
また当寺は法然上人二十五霊場の縁故本山でもある。
また永観堂は「悲田梅」が知られている、永観の時代に於いて梅の木を植え施薬院を興し病人に与えて救済に努めた。
みかえり阿弥陀像のコピー的尊像が数尊ある、山形県米沢市堂森山の善光寺、群馬県高崎市下豊岡町の万日堂に高崎市の文化財指定を受けて安置されている。

 

浄土宗西山禅林寺派総本山      所在地   京都市左京区永観堂町48    ℡ 075-761-0007  

浄土三部経  阿弥陀経    観無量寿経   大無量寿経 

 

 

 
永観堂の主な文化財 

山越阿弥陀図  絹本著色 掛幅装 138,0×118,0cm 鎌倉時代  雲に乗る観音、勢至菩薩に幡を持つ童子が画かれている。  


金銅蓮華文磬 10.4cm:27.8cm 平安時代 元来中国の楽器で読経の折りに鳴らされる磬で紐で吊るされる、平安様式を反映した美しい作品 


阿弥陀如来立像(みかえり阿弥陀)  木造 77,0 cm  鎌倉時代 


●阿弥陀二五菩薩来迎図 絹本金彩 掛幅装 119,1×111,5cm 南北朝時代 


●阿弥陀如来像 絹本著色 掛幅装 106,4×44,0cm 鎌倉時代 


●十界図 2幅 絹本著色 掛幅装 各133,4×125,2cm 鎌倉時代  


●釈迦十六善神像 絹本著色 掛幅装 108,2×54,8cm 鎌倉時代  


十六羅漢像 16幅 絹本著色 掛幅装 各93,6×40,9cm 鎌倉時代  


●当麻曼荼羅図(観経変相) 絹本著色 掛幅装 374,8×391,2cm 鎌倉時代  


●二五菩薩来迎扉絵 12枚 板絵著色 56,4×10,013,0cm 南北朝時代  


●佛涅槃図 絹本著色 掛幅装 229,4×157,6cm 南北朝時代伝恵心僧都筆 


薬師如来像 絹本著色 掛幅装 94,5×53,0cm 鎌倉時代  


●融通念仏縁起 紙本著色 巻子装 上巻36,7×1933,0cm 下巻36,7×2086,0cm 室町時代 

十大弟子像   絹本着色  張思恭筆

当麻曼荼羅図 絹本着色  鎌倉時代

波濤図  紙本墨画     長谷川等伯
   他 


注1、永観   1033年~1111124日)
専修念仏のパイオニアとも言われ浄土宗八祖の一人である、禅林寺に入山し深観に学ぶ、東大寺に於いて受戒、法相・三論を学ぶが後に阿弥陀信仰に傾注し真言宗の禅林寺を浄土信仰色にした僧で禅林寺中興の祖と言われる、法相教学・三論教学・華厳教学に精通したが、浄土教に魅かれて帰依し一万遍の念仏を自らに帰す。
院内に薬王院を設け貧者・病人の救済に当たる、
往生拾因」「往生講式(こうしき)」等の著作がある、往生拾因は法然の哲学に多大な影響を及ぼした様である。
往生拾因 (おうじょうじゅういん) とは 称名念仏により往生する手法を十項目の因に説明したもので往生は道俗貴賤に無関係であり、衆生の罪も貴人と同等に救済される、これを念仏宗とよんだ、後に東大寺の別当職を勤める。
また創健者の真紹は師の実恵(じちえ)と共に拓いた観心寺の五智如来を禅林寺に移したとされる。
 


注2、 定額寺 天皇の勅願により寺名を記す額を与えられ官寺に準ずる待遇が受けられる寺を言う,皇室の繁栄祈願を目的としており国の制約を受けるが多くの権限をもち収入面に於いて安定する。 

注3、 五智如来の五智とは金剛界五佛を言い五の智慧を現している。  
   1、大日如来  ・法界体性智(ほっかいたしょうち) 宇宙の真理を現す知慧  
   2、阿閦如来  ・大円鏡智(だいえんきょうち) 森羅万象を鏡す知慧
   3、宝生如来 平等性智(びょうどうしょうち) あらゆる機会平等の知慧
   4、無量寿如来 妙観察智(みょうかんさつち)正しい観察の知慧
   5、不空成就如来 ・成所作智(じょうしょさち) 必要な事を行う知恵  

4 、 入唐八家  唐に留学した高僧を言い 最澄(天台宗) ・空海(真言宗) ・円仁(天台宗) ・円珍(天台宗) ・円行(真言宗) ・常暁(真言宗) ・恵運(真言宗) ・宗叡(真言宗)を言う。

 

 

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