正式名称を「両界山
現存する寺の敷地は14世紀に維持が困難な山の中腹から移設された堂宇である、信長により攻撃を受け荒廃し、寺の創建や沿革に於いて資料は極端に少ないが徳川幕府により再建される、天台宗に於ける山岳寺院の特徴を持つ伽藍配置を有し、大日如来像、薬師如来像を始め多くの仏像が有るが当寺の本尊薬師如来は信長の比叡山焼き討ちの後、1595年に根本中堂に移設されたとされる、現在の本尊である薬師如来は京都市北区上賀茂の
当寺を訪れる観光客には妙心と言う僧のミイラが著名であるが鄙びた雰囲気をあじわう事が出来る、また近くに同じ天台宗の寺で西国三十三箇所の結願札所である華厳寺(谷汲観音)があり賑わいを見せている。
山号の両界山は横蔵寺を囲む山峰を金剛界と胎蔵界に擬えたとされる、因みに真言宗に於いては両界曼荼羅と言う呼称は用いず両部曼荼羅と言うが天台宗に於いては円珍
天台宗
主な文化財 瑠璃殿
●薬師如来坐像 木造 漆箔 玉眼 87,7cm 鎌倉時代(秘仏・本尊)
●大日如来坐像 木造 玉眼 70,1cm 梵字陀羅尼9巻納入品 平安時代
●四天王立像 木造 彩色 玉眼 持国天82,5 増長天80.7 広目天83,8 多門天82,3cm 室町時代
●十二神将立像 12尊 木造 彩色 84,8〜110,5cm 平安・室町時代
●金剛力士立像 木造 彩色 玉眼 阿形278,5cm 吽形279,0cm 鎌倉時代(肥後法眼・定慶作、佛師の項参照)
●深沙大将立像 木造 彩色 175,5cm平安時代
●法華曼荼羅 一面 木造板彫り H18,6 平安時代
注1、両部(界)曼荼羅の呼称について通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について両部・両界また胎蔵界曼荼羅・胎蔵曼荼羅と併用して呼ばれているが、密教の碩学・頼富本宏氏に拠れば 「曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として」に於いて「曼荼羅の典拠となった大日経と金剛頂経のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語のみを用いている」即ち金剛頂経には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、大日経では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵生曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵界曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いておられる,更に「性霊集」に於いて高野建立の初めの啓白の文で「敬って十方の諸仏、両部の大曼荼羅海会の衆‐‐」とある。
また氏は円仁・円珍・安然など天台密教(台密)が興隆すると修法のテキストにあたる次第類の中に胎蔵界と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅が使われる様になったと言はれる。
現在では文化庁を中心とした実践資料や美術的なサイトからは両界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅が使われているが真言宗では密教教義上からは両部曼荼羅・胎蔵曼荼羅と呼ぶのが正しいとされている、しかし御室派に所属する岡山県・四王寺の住職・吉田宥正氏などは、両部・胎蔵の呼称を正統としながら、寺院所有の曼荼羅が地域の文化財指定を受けているため、両界・胎蔵界曼荼羅の呼称を用いられている、同じく高野山で学ばれ「国宝・獅子唐草文金銅鉢」を所蔵する、高野山真言宗「金光明四天王護国之寺」の広瀬良弘住職のサイトでは両部・胎蔵を用いられている。
但し国宝・五部心観を持つ天台寺門宗・総本山、園城寺では呼称には拘らず併用しているとの事。
最終加筆日2004年8月29日 2010年12月14日 2015年6月11日 2017年4月3日