正式名称は大寺山願興寺と言う、通称で蟹薬師また地域名から
中仙道御嵩宿の中心に位置しており、最澄が旅の途中に施薬院を建立したのが始まりとされる。
一条院の皇女行智尼が住んだとされ、本尊の薬師如来を信仰する人々で栄えた。
992年には勅命により七堂伽藍が完成したが二度の兵火に遭い消滅するが、1681年に一部分が再建され天台宗と浄土真宗の様式を兼ね備えた本堂が現在に残る、願興寺は後に100石を付与された、檀家は10家程度しか存在しないが地域の人々が団結して守護されている。
願興寺の本尊薬師如来は秘仏で最澄自刻との寺伝がある、また本尊を鞘佛として胎内に10cmに満たない金色の薬師如来を内包しているが,一条天皇の皇女(妹説もある)と言う、行智尼により納められたとされ絶対秘仏である、本尊は子年四月頃のみの開扉である。
願興寺は東海地方に於ける仏像のパンテオン(Pantheon)と言える、岐阜県下随一の仏像彫刻の宝庫であり十二神将を含めて24尊が重要文化財指定を受けている、岐阜県内に於いて50%の重文指定像(岐阜県内の重文指定は48尊)の安置は圧巻である、また他の無指定の仏像も美しいフォルム(forme・仏)
願興寺で注目すべきは釈迦如来像の印相がある、説法印すなわち転法輪印(注3)と言い五時の教判(注2)で言う
配置の相違は他の著名寺院にも観られる、東大寺南大門や善光寺四門の内、定額山の扁額が架かる仁王門(高村光雲作・注4)の金剛力士は通常と逆配置であり、東寺講堂の羯磨曼荼羅に於いても如来・菩薩群と明王・天群の位置がずれている、また浄土寺の国宝阿弥陀三尊や仁和寺金堂の本尊も観音菩薩(通常左)と勢至菩薩(通常右)が逆の配置である、阿弥陀三尊の場合は「
宗派 天台法華宗 所在地 岐阜県可児郡御嵩町1377
*拝観は毎月8日(護摩供養日)と金・土・日曜日 その他は予約が好ましい。 ℡ 0574-67-0386
注1、釈迦如来は施無畏・与願印が多いが釈迦五印と言い説法印・定印・降魔印が加わる、定印を結ぶ釈迦如来像の重文指定に法隆寺・清凉寺 ・慈眼寺などに約十尊存在する。(いずれも坐像)
また説法印(転法輪)のが重文指定像は*極楽寺(鎌倉)坐像と*願興寺に存在するのみで貴重である、特に願興寺は逆転法輪であり、住職・小川文甫尼は逆転法輪が法華経を説く印形と言われる。
因みにオーソドックスな転法輪印は*広隆寺(京都) 阿弥陀如来、 *願成就院(静岡県) 阿弥陀如来、 *戒壇院(福岡) 盧舎那等々にある。 、
注2、
1, 華厳時 覚りの時から二十一日間(異説があり27日・37日説等がある)
2, 鹿苑時 十二年間
3, 方等時 八年間
4, 般若時 二十二年間
5, 法華涅槃時 八年と1日半に変化したとも言われる(1日半は涅槃経を説いてから入滅までの間)。
注3、転法輪 元来は武器であるが仏教では説法を言う、法輪とは正しい教えと言う武器を意味する。
注4、高村光雲(1852年3月8日~1934年10月10日)仏師、彫刻家で上野恩賜公園の西郷隆盛、皇居前広場の楠正成、東京国立博物館の老猿(重文)等の作品を残す、また善光寺の金剛力士は弟子の米原雲海との共作である、道程、知恵子抄等を著した詩人、彫刻家の高村光太郎は長男。
本堂に懸る扁額 「蟹薬師」
主な文化財
●釈迦如来三尊(説法印)木造 漆箔 玉眼 釈迦如来 70,1cm 普賢菩薩 43,9cm 文殊菩薩 45,5cm 鎌倉時代
●薬師如来坐像 木造 脇侍 漆箔 薬師如来137,3cm 脇侍 日光・月光菩薩 206,6cm 平安時代 本尊 厨子入り秘仏 子年開扉
●阿弥陀如来坐像 木造 漆箔 玉眼 82,5cm 鎌倉時代
●阿弥陀如来立像 木造 164,2cm 鎌倉時代
●四天王立像 木造 彩色 持国天269,1cm 増長天269,7cm 広目天257,6cm 多門天271,5cm 鎌倉時代
●十二神将立像 12尊 木造彩色 切金文様 116,5~123,0cm 平安時代