山号は那智山と言い熊野那智大社の
神道、修験道、仏教、土着信仰の交錯地点であり如来、菩薩と呪術が垂迹した処と言える、即ち阿弥陀如来・薬師如来・千手観音菩薩と熊野権現がリンクした神仏習合・本地
那智の滝は寺よりも著名である、フランスの文化相などを務めたアンドレ マルローは(André Malraux 1901年11月3日~1976年11月23日)「空に向かってそそり立つ白い剣」と表現した。
信長が亡き後秀吉の援助で再建され1890年に略現在の堂宇を持ち、これが現在の本堂(重要文化財)・大門・宝蔵・鐘楼・護摩堂なども復旧される。
吉野熊野国立公園の中にあり、世界遺産登録(熊野古道)を受けた観光名所である那智の瀧と隣接する熊野那智大社の別宮・飛瀧神社の隣にある。
飛瀧と言えば熊野三山には熊野十二権現があり、第一殿には
古来より山岳信仰のメッカであり、死者の霊の住む土地・聖地としての信仰が強く、那智山を補陀落浄土とする信仰と、
閑話休題、佛教も修験道も基本的には「山川草木 一切衆生 悉有仏性」である、山へ登れば六根清浄すなわち謙虚、懺悔の場所であるが、一神教の多くは山は征服の対象である、因みに
禁裏、貴族の参詣と前後して大衆にも広がり「熊野道者」で賑わい見せる、本堂の如意輪堂は西国三十三所の一番札所となって存在感を示している。
資料は存在しないが、青岸渡寺は伝承によれば那智山を開いたのは、飛鳥時代の遥か以前にインドから来た裸行上人とか飛鳥時代に
熊野地方(和歌山県 三重県)は国家神道を目指す政府から神仏分離令から廃仏毀釈の最大級の壮絶極まる被害を受けた処で神社の数が15%程に削られた。
熊野三山は園城寺の僧・増誉が1090年に熊野に行幸した白川上皇の先達をした事もあり、天台系の牙城でもある。
2004年7月に熊野古道が世界に於いて二番目即ち、サンチャゴ巡礼コースに次いで世界遺産の指定を受け高野山・吉野山とを結ぶ、「霊場トライアングル・熊野古道」とも言える古刹散策があらためて広く知られるようになった。
青岸渡寺の管理下に補陀洛山寺があり小舟に乗り補陀洛浄土を目指した渡海僧達が居たが、これは生贄の変形であり宗教から生贄を駆除した仏教の哲学に著しく反する。
主な文化財
● 大日如来 銅像 19,6cm 平安時代
● 阿閦如来 銅像 15,9cm 平安時代 金銅薄肉
● 宝生如来 銅像 16,6cm 平安時代
● 不空成就如来 銅像 15,3cm 平安時代
● 観音菩薩 銅像 18,9cm 飛鳥時代
● 観音菩薩 銅像 32,6cm 奈良時代
● 如来立像 銅像 14,6cm 平安時代
● 宝波羅蜜菩薩 銅像 16,2cm 平安時代
宝篋印塔 鎌倉時代
天台宗 所在地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(ひがしむろぐん) 本尊 如意輪観音 秘仏
注1、熊野三山
紀伊山地の霊場と参詣道の名称で世界遺産に指定された本丸であり熊野三所権現と呼ばれることもあり古くから熊野へ行くことによって死者の霊に対面できると言う信仰が出来ていた、日本書紀・神代編に拠れば有馬村は「いざなみ尊」が葬られた場所とされたと言う。
八世紀後半には山岳修験者が集まり「熊野坐神社」「熊野速玉神社」が出来る、十一世紀には「熊野那智大社」が加わり修験者のみでなく白河・後白河・後鳥羽上皇などは幾度も参詣され貴族から、さらに熊野比丘尼の活躍で庶民に至るまで幅広い信仰の聖地となった。
また近郊には補陀洛山寺が置かれ僧侶が船で観音浄土を目指す
三山の垂迹佛として佛教との関連を説明している。
(1)
熊野本宮大社(熊野坐神社) (主神)
(2)熊野速玉神社(新宮) (主神)熊野速玉
(3)熊野那智大社 (主神)熊野
*参詣曼荼羅や熊野三山の本願所寺院に籍を置く熊野比丘尼が勧進に携行し絵解き行脚した、「熊野観心十界曼荼羅」があり三重県を中心に40点以上の曼荼羅が確認されている、天台宗の重要教義である「十界互具」を絵画化された変相図で、人の「心」に内包する十界、すなわち解脱と解釈できる・仏界 ・菩薩界 ・縁覚界 ・声聞界 に輪廻を転生する六道、所謂 ・天界 ・人界 ・修羅界 ・餓鬼界 ・畜生界 ・地獄界 の様子を1葉に画がいた変相図である、同時に熊野三山を画がいた「那智参詣曼荼羅」等も携行した様である。
注2、霊場 ・熊野古道関連 高野山・金剛峯寺 吉野山・金峯山寺
最終加筆日2004年7月19 日12月23日 2017年5月25日